てんきちゃんのぶろぐ

おい!!!!!!!!!

苦手なこと

ぼくは子どもの頃から「絵が上手い」と周りの人たちに言われることが多かった。

無論、そんなのは小さい頃だけの話なんだけれど、おばあちゃんなんかは未だに「○○(本名)は絵が上手いから……」なんてことを「何回目?」ってくらい頻繁にあほ面で抜かしてくる。ぼくが "絵が上手い人" で通用したのはせいぜい中学2年生とか、最悪幼稚園の年長くらいの頃までの話である。しかし家族っていうのは、そんな実際の現実なんて構いはしなくて、ただ孫や息子を褒めて悦に浸りたいだけだったりする。


そんな "絵が上手かったぼく" も、今となっては "絵が苦手なひと" の方の部類だ。たぶん。いや単にそう思っているだけかもしれない。自意識が。といっても、もともと絵の関係の仕事を目指しているわけで、人並みよりは上手いのだけれど、なんというか、中途半端に下手。自分の何が下手なのかが分からず、何時間も絵を見返しては首をひねり描き直して、ブルーライトで目が痛いと泣き、この2、3年で完成したイラストはたったの2枚、未完成のゴミが80枚くらいという、底辺絵師あるある的体験もバッチリ経験している。


ところで、

「絵を描く時間は、自分ひとりで集中できる時間」

と言う人がいた。
なるほど、と思った。その発想はなかった。


そういえば、たしかに学生の頃はなんというか、絵を描くときの意識が違った気がする。何にも邪魔されない、何の重圧もないフレッシュな集中。自分の欲求にひたむきで素直。邪気がなかった。

記憶の隅に追いやられてたあのころの感覚を久しぶりに思い出してからというものの、あの時期と現在のあまりの体感の違いにどこか愕然としてしまっていた所があった。絵が下手になったわけではない。実際のところ、技術なんかは小さい頃よりも明らかに上がったはずである。


しかし、魅力がないのである。
そんな気がして仕方ないのだ。
自分で自分の絵が好きになれない。何かに圧迫されたような見苦しさが、ただスっと引いただけの一本の線にも透けてしまう気がする。最悪、全部強迫症状みたいなしょぼい勘違いかもしれないが、それくらいにあの頃とは絵を描くときの感触が違ったのである。


「線一本ですらまともに描けないのに、僕が描いた絵に一体何の良さなんか見い出せるんだろう?こんな邪念だらけの絵に見る人は何を見い出せるんだ?」


そう疑念を抱きながら描いた絵は、実際良くなかった。
とにかくスランプ、イヤイヤ期、描くのが辛い、描きたくない。唯一の救いは、"今自分が描きたくない、スランプだ" ということに自分で気づいていることだった。ぼくはいま、線一本にすら魅力がない、と自分(の絵)に対して思っている 。それを自分で認識している。(絵というか、絵以前の自分自身へのコンプレックスや罪悪感が大きすぎる。)
まあ実際は、そのような疑念があらゆる場面に付きまとう辛さが、人によっては創作工程そのものと言える。


ただ今、絵を描くことが楽しかったあの感覚が、どうしても改めて欲しいと思ってしまう。生活する上での自罰感情とか、自意識とか、あらゆるものがないまぜになって絵を作っていて、デザインセンスなどというちっぽけな問題ではなくて、恐らくずっと、チューニングからズレていた。
絵が上手い下手で決まるのなら、絵が上手くない漫画家やデザイナーは絶対に出世できないと思うが、実際そんなことは無いのである。


それに加えて、これからぼくが気をつけるべきことは、きっと「ふつうな精神でいてはならない」ということだ。
「ふつう」をやめること。

そもそも、芸能界はふつうな精神で臨むべき舞台ではないと最近思った。ある意味狂っている人、ある方向でのどこか狂人だけが壇上に登り、生涯歩き続けている気がする。(いやそもそも果たして一般論としての一般的な人というのが本当に正常なのか、芸能芸術の世界の第一線を行くような人たちが本当に狂人なのか、という話ではある。)


世間一般的に、社会的に清潔で、マトモに、ふつうらしく、一般的にマルが付く。そんな在り方ではダメだと思う。(たぶんね。)
子どものように無邪気にあるとか、無心であるとか、そういうことを大人になっても、ジジイになっても狂ったように続けられる、子どものように熱中出来る人がきっと生涯創り続けている。そのへん、人並み外れなければいけない気がする。
上も下も右も左もなく、素直に好き放題やっていた、子どものころみたいになるべきである。もし今塞いでいるなら、せめてそういう憧れを持つべきだった。


とかなんとか言ってるけど、要は描きたくないだけだ。まずは、やりたくない自分を理解してみたら、やりたい自分が理解出来てくるかもしれないな、なんて思ったりしている。

描きたさを思い出せば、自ずと魅力は磨かれてくるはずだから。

絵が描きたい。